極論(一部公開)|批評家 黒嵜想

南極誌『P2P』刊行を記念して、第O号所収の黒嵜想(極セ研所長)による「極論」の冒頭部分を公開いたします。

初出:秋田県での「反戦展」に伴い刊行された新聞『SUM_MER』(2022)、『SP_RING』(2023) https://gancv.com/?p=52

極論

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 2015年。「Sustainable Development Goals」、つまり「持続可能な開発目標」を意味する国際的な行動計画、通称「SDGs」が国連総会にて採択された。17の目標のもと、各項目には総数にして169の達成基準と232の指針が指定されている。社会インフラの整備に始まり、ジェンダー平等や環境保全活動など、そこには個人規模から地球規模の問題にいたるまで、あますところなく詳細なガイドラインが設定されている。21世紀初期に編まれた、この国際目標に冠されたスローガンは「誰一人取り残さない」。

 同年。習総書記とプーチン大統領は「一帯一路」とユーラシア経済連合を連結させるとの声明を共同で発表した。批評家の福嶋亮大は『ハロー、ユーラシア』にて、2010年代以降の中国政府が提唱している「新たなシルクロード」、つまり経済圏拡張戦略「一帯一路」構想の向こうに、「球」と「道」という二つの世界像の対立を見出している。中国語ではグローバル化を「全球化」と呼び、中央アジア〜ヨーロッパ〜アフリカの中継としてのユーラシア大陸を「帯」や「路」として捉えることは、世界を一つの「球(globe)」とすることと好対照を成している。グローバル化が顕著に進んだ21世紀とは、球体の世界像を基礎として、私たちにさまざまな恩恵とリスクをもたらした時代だ。球は丸い一つの面であり、全世界を否応なく相互に連結させる。気象・資本・交通といったネットワークは、緊密にあらゆる地域をほぼタイムラグなくつなげるが、コロナウイルスの感染拡大とその影響もまた、この連絡路を介してやってきた。世界が、内外の区別をもたない一つの球面である限り、私たちはこのようなリスクから逃れられず、内政と外政の区別も曖昧にならざるをえない。ならばグローバル化とは球状に解放された世界であるのみならず、「球状の監禁システム」とも言いえるだろう……。福嶋は以上のような問題提起とともに、いわば「別なるグローバリズム」として提出された世界像を現代の中国の、かつてのロシアや日本のイデオロギー思想に参照してゆく。

 福嶋の言葉を筆者なりに言い換えよう。21世紀は、地球を陸海空のテクスチャに覆われた「真球」とすべきか、それとも境界線で縁取られた数々の平面がポリゴンをなす「多面体」すべきか、という2つの見立てが諸所で衝突している。気象予報と並べて報道される感染者数の推移を睨みながら、ソーシャルディスタンス、ロックダウン、ステイホームといった感染対策のオプションに翻弄されるとき。戦争において、大統領が個人メディアであるSNSによって世界中に共感と賛同を呼びかけ、あるいは情報や経済の国際的なネットワークを断ち切り自閉することで、自国民の戦意を高揚させるとき。私たちは連続性の極と断続性の極とのあいだで揺さぶられている。内外がなく、したがって中心を持たぬかのように見える「球」の全体性と、内外の区別と中心を打ち立てんとする「面」の個別性と。後者にとってみれば、SDGsのスローガンは「誰一人取り逃がさない」と同義なのかもしれない。

 しかし、疑問は残る。真球と多面体の対立を無化する、地球の特徴が不問にされているのだ。この球体は静物ではなく、自転と公転を続ける動物だ。そして、自転する球体はひとつの球面でありながら、ふたつの頂点をもつ。球体を串刺しに貫く回転軸が球面とつくる接触点である。地球におけるこのふたつを私たちは「北極点」、「南極点」と呼ぶ。極点を含むエリアである極域は、天体が回転する限り「ふたつの中心」であり続け、中心なき真球も中心ありきの多面体も、いずれの世界像も完成を阻まれるはずなのだ。時間の輪郭をつくる子午線はカーブを描きながら二点で束ねられており、北極海あるいは南極大陸を中心に描く世界地図は、各国の距離関係と領土主張の緊張をまったく別様に置き換えてしまうからだ。では、問いをこのように言い換えるべきだろう。21世紀のグローバル化へ至るまで、人類はこの特権的な頂点にして中心、ふたつの極をどのように丸め込んだのか? 導きの糸となるのは、19世紀末から20世紀を通して変遷をたどった南極大陸の扱いだ。

 1893年。当時の日本国領土の最北端である占守島に、とある部隊が取り残された。厳しい雨風にさらされ、道中19名もの死者を出してしまうも、最終目的地になんとか辿り着いた郡司成忠大尉率いる千島探検隊だったが、郡司はその後、隊に待機を命じ本土へ去ってしまう。島での越冬が決まった隊長は、さらなる地獄を見ることになる。皮膚が痛むほどの寒さ、壊血病により腕のなかで息たえる部下たち。食糧難のため、愛犬を撃ち殺してその肉を食らうこともあった。置き去りにされた隊が救出され本土に帰ることができたのは、日清戦争の開戦と終戦を挟んだ2年後、1895年。帰還した隊長は郡司を憎み、厳しく批判した。彼の名は白瀬矗(しらせのぶ)、当時32歳。のちに日本人初の南極到達を果たす人物である。

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